「衝撃映像」に吸い寄せられる私たち:メディアが変わっても変わらない「人間の本質」
はじめに:リビングと自室で起きている同じ現象
夕食後のリビング。70代の親は、テレビの特番『世界の衝撃映像100連発』を食い入るように見つめている。凄まじい交通事故の瞬間や、猛獣に襲われる危機一髪のシーンが流れるたび、「おぉ、危ない!」「信じられない」と声を上げる。
一方で、その隣(あるいは自室)にいる20代の子どもは、手元のスマートフォンでYouTubeやTikTokを眺めている。画面に流れてくるのは、インフルエンサーが炎上しかけている様子や、海外の過激なドッキリ、あるいは防犯カメラが捉えた生々しいトラブルの映像だ。
一見すると、昭和・平成の価値観を引きずる「テレビ世代」と、デジタルネイティブの「スマホ世代」という対立構造に見えるかもしれない。しかし、一歩引いて俯瞰してみれば、そこには驚くほど共通した光景が浮かび上がる。
「ショッキングな映像を見て、心を揺さぶられている」
変わったのはデバイス(器)だけであり、それを受け取る人間の本質は、実は一歩も動いていないのではないか。今回は、この現象の裏側に潜むメカニズムを考察した。
1. なぜ私たちは「嫌なもの」から目を逸らせないのか
そもそも、なぜ人間は平穏を願いながらも、わざわざショッキングな映像を求めてしまうのだろうか。そこには、数万年前からアップデートされていない私たちの「脳」の仕組みが関係している。
生存本能としての「ネガティブ・バイアス」
人間には、ポジティブな情報よりもネガティブな情報に素早く、強く反応する「ネガティブ・バイアス」という特性が備わっている。原始時代、木の実が実っている情報よりも「あそこに肉食獣がいる」という情報の方が、生存に直結したからだ。
現代において、テレビやスマホに流れる「衝撃映像」は、脳にとっての「疑似的な外敵」である。脳はそれが画面の中の出来事だと分かっていても、「危険を察知せよ」という古いアラームを鳴らす。私たちが衝撃映像を見てしまうのは、趣味嗜好の問題ではなく、種として生き残るための防衛反応がバグを起こしている状態と言える。
脳内の報酬系:恐怖の後の安堵感
また、ショッキングな映像を見た直後、私たちの脳内ではドーパミンやアドレナリンが分泌される。危機的な状況を確認し、「自分は安全な場所にいる」と再認識した瞬間に、一種の快楽や安堵感を得るのだ。これはジェットコースターやお化け屋敷を楽しむ心理と同じである。
70代がテレビで見る「飛行機事故の瞬間」も、20代がスマホで見つめる「深夜のストリートトラブル」も、脳からすれば同じ「安全な場所からのスリル」という報酬系を刺激するコンテンツに過ぎない。
2. メディアの変遷:パッケージ化された恐怖から、剥き出しのリアルへ
「本質は変わらない」とはいえ、メディアという「器」が変わったことで、その刺激の届けられ方には進化(あるいは深化)が見られる。
テレビ世代:編集という「フィルター」による安心感
70代の親が親しむテレビの衝撃映像は、実は高度にパッケージ化された商品だ。
煽り立てるナレーション
重厚なBGM
「この後、奇跡が起きる!」というテロップ
スタジオの芸能人のリアクション
これらは、映像の残酷さを中和し、エンターテインメントとして消費しやすいように加工する「フィルター」の役割を果たしている。視聴者は、ある種の「お約束」の中で安心して驚くことができるのだ。
スマホ世代:フィルターのない「生(なま)」の恐怖
一方、20代がスマホで見る映像は、しばしばフィルターを欠いている。
誰かがスマホで隠し撮りした無加工の映像
BGMもテロップもない静寂の中の暴力
リアルタイムで進行する炎上騒動
スマホ世代が求めているのは、テレビ的な演出という「嘘」を排除した、剥き出しのリアルだ。しかし、その「リアルを求める」という動機の根底にあるのは、やはり「強い刺激で脳を揺さぶりたい」という原始的な欲求であることに変わりはない。
3. アテンション・エコノミー(関心の経済)の功罪
メディアが変わっても本質が変わらないもう一つの理由は、送り手側の論理が共通しているからだ。現代は、人々の「関心(アテンション)」がお金になるアテンション・エコノミーの時代である。
「視聴率」から「インプレッション」へ
かつてのテレビマンは、1%でも高い視聴率を取るために、世界中からショッキングな映像を買い叩いてきた。それが広告収入に直結するからだ。
現代のYouTuberやSNSの投稿者も、全く同じ論理で動いている。1回でも多く再生され、1つでも多く「いいね」がつくように、サムネイル(表紙)をより刺激的にし、動画の冒頭に衝撃的なシーンを配置する。
親が見ているもの: プロの制作者が「家族団らん」の時間を奪うために作った衝撃映像。
子が見ているもの: アルゴリズムが「個人の可処分時間」を奪うために選別した衝撃映像。
結局のところ、どちらも「人間の注意を惹きつけるには、理性よりも本能(恐怖や驚き)に訴えかけるのが最も効率的である」*いう冷徹なビジネスロジックの上に成り立っている。
4. 世代間の断絶が生む「鏡合わせ」の批判
面白いのは、これほど同じ行動をとっていながら、世代間でお互いを批判し合う構図があることだ。
親世代から子へ: 「そんなスマホばかり見て、何が楽しいんだ。もっと世の中のニュース(テレビ)を見なさい」
子世代から親へ: 「テレビの衝撃映像なんて演出ばかりでくだらない。スマホの方がよっぽど今の現実がわかるよ」
このやり取りは、実は非常に滑稽である。なぜなら、両者ともに「外部からの刺激によって脳を興奮させている」という本質的な状態は同一だからだ。
親はテレビという「公的な窓」から刺激を摂取し、子はスマホという「私的な窓」から刺激を摂取している。窓の形が四角か手鏡サイズかの違いだけで、外を覗き見たいという野次馬根性に差はない。
5. 「本質が変わらない」ことが示唆する未来
デバイスがテレビからスマホに変わり、今後はVR(仮想現実)やAR(拡張現実)へと移行していくだろう。しかし、どれだけ技術が進歩しても、私たちが「ショッキングなもの」に惹かれる性質は変わらない。
むしろ、懸念すべきは「刺激のインフレ」だ。
テレビというフィルターを通していた時代に比べ、スマホでダイレクトに刺激を受ける現代は、より強い刺激でなければ脳が反応しにくくなっている。70代がテレビの事故映像で「おぉ」と驚いている横で、20代はより過激な、より生々しい映像を無表情でスワイプし続ける。
この「慣れ」の果てにあるのは、他者の痛みに対する不感症かもしれない。本質が変わらないからこそ、私たちは自分たちが「何を、なぜ見ているのか」を自覚する必要がある。
結びに:私たちは、ただの「刺激を求める生き物」なのか
70代の親も、20代の子どもも、等しく衝撃映像に釘付けになる。
その姿は、メディアという魔法の鏡に映し出された、私たち人間の「変われぬ本能」を象徴している。
メディアが変わったのは、技術が進歩したからではない。人間の尽きることのない好奇心と恐怖への欲求を、より効率よく、よりパーソナルに満たすために進化したのだ。
もし、あなたがリビングで親がテレビを見ている姿を、あるいは自分の子どもがスマホをスクロールしている姿を見かけたら、こう思ってみてはどうだろう。
「ああ、私たちは今、同じものを食べているんだな。情報の形は違えど、心の空腹を埋めるための同じ刺激を」
本質が変わらないことを受け入れたとき、初めて私たちは、メディアに踊らされるのではなく、メディアを使いこなす一歩を踏み出せるのかもしれない。
今回の考察のまとめ
本能の共通性: 生存本能(ネガティブ・バイアス)がショッキングな映像を求めさせる。
ビジネスの共通性: テレビもSNSも、人間の「アテンション」を奪う仕組みは同じ。
世代の鏡: 批判し合う親子は、実は同じ「刺激」という報酬を求めている。
未来への課題: 刺激のインフレにどう向き合い、自覚的になれるかが問われている。


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